マラソンを岩手からゆっくり伝えるブログ

マラソンに関するブログです

いわて盛岡シティマラソンまでのモチベーションとなり得る大会、箱根駅伝

第96回箱根駅伝を観て感動したことや興奮したこと、気持ちが揺さぶられた事。


1区:青学エントリー変更でエース格の吉田圭太選手が走った事。でも区間賞を獲れなかったこと。早稲田の中谷雄飛選手がハイペースの展開に持ち込ませたこと。これにより、もしかしたら東洋西山選手がついていけなかったことと関係してるかもしれないこと。


2区:青学岸本選手がスーパールーキーだったこと。東洋相澤選手と東京国際の伊藤選手の並走物語。相澤選手が伊藤選手を更に覚醒させている様に見えた。相澤選手の区間新も、伊藤選手がおらず単独走だったなら無かったかもしれないこと。


3区:駒大田沢廉選手が強かったこと。3大駅伝で全て結果を残した怪物だったこと。東京国際大学のヴィンセントの1時間切り。日本ハーフマラソン記録よりも速い。ヴィンセント選手1位、田沢選手の間に割って入った帝京遠藤大地選手。そして履いていたシューズがミズノでナイキヴェイパーフライネクストでなく記録を出した強さ。順調に成長していると思えたこと。


4区:青学吉田祐也選手の首位奪還物語。


5区:国学院浦野選手の、獲れなかった往路優勝、その難しさ。東洋宮下選手の意地。


6区:東海館澤選手の猛追劇。いつもゴール後に倒れこめる、自分の全力を知っている走法。


7区:明治阿倍選手の走り。

8区:青学岩見選手の昨年のリベンジ。

9区、10区:青学の、来年に繋げる3年神林選手、2年湯原選手への襷リレー。帝京の猛追。

繰り上げスタートが今大会とても少なく感じ、例え順位が下位チームであっても全体のレベルは高かったこと。


復路をがっちり観ていなかったので文章量が少ないが、書かずにいられない興奮と感動をした物語だった。



実況の「平川さん、平川さん」て皆言いがちとか、上重アナは「ファイヤーレッド」を言いがちとか、正月の風物詩を今年も聴けて幸先良いと思った。


箱根駅伝の放送開始した理由が、子どもの頃の記憶が確かなら、ビートたけしが不祥事を起こして収録した新春の番組が放送出来ず、急きょ決まったことからだ。


昨年は大河ドラマ「いだてん」にもたけしは出演しているし、もしかしたらマラソンを愛してるのかもしれない。


子どもの頃は親が観てる箱根が退屈で仕方がなかったが、なんと深い物語なことか。


今日も録画した箱根を観て、モチベーション上げて、走りに行く。

いわて盛岡シティマラソンまでのモチベーションになり得る大会、ニューイヤー駅伝

ニューイヤー駅伝2020。

MHPSの井上広仁選手。


2019年MGCで完走選手中で最下位だった、BIG4の1人。


MGCでオリンピックを内定する選手を無礼ながら、失礼ながら予想し、佐藤悠基選手と、井上広仁選手の2人だと思っていた。


設楽悠太選手が当時の日本記録2:6:11で走った際の、日本人2位2:6:54で東京マラソン2018を走り、ゴール時のあの悔しそうな表情は、設楽選手の光に対して影だと見えた。


その夏。

アジア大会で日本代表として出場し、激走の末32年ぶり日本人優勝を成し遂げた。


設楽選手にスポットライトが浴びさせられているあまりの光の眩しさに僕は気づかなかったけど、井上選手のフォームの綺麗さにすっかりファンになっていた。


アジア大会は、お盆のお墓参り中でも気になってしかたがなかった。


「正直、考えがまとまっておらず、悔しいというよりも、戸惑う結果になってしまいました……」。


MGC直後の彼の発言に、勝手ながら心配した。


ニューイヤー駅伝2020。

テレビ中継が始まり、ウォーミングアップしている井上選手の傍らに、ピンクのヴェイパーフライが見えた瞬間、鳥肌がたった。


風の便りには少し聴こえていた。


ナイキを履き始めたらしい、と。


「皆さんが思っている程落ち込んでもいないし、落ちぶれてもいない」


彼の言葉にまた鳥肌がたった。


次回のいわて盛岡シティマラソンまでの僕のモチベーションになりうる出来事だった。

いわて盛岡シティマラソンまでの道標をしてくれた恩師

いわて盛岡シティマラソンから遡ること3年前その2。


そもそもマラソンをするきっかけになったのは、8月の健康診断で、素晴らしい結果票を目の当たりにしたからだ。


いわゆる良好と言われるA判定が2個程。

注意が必要、みたいなB判定が5割程。

要受診、みたいなC判定が残り程だった。


鼻が常に肉で詰まっている。

両手の甲には、行き場を失なった脂肪の出来物がブツブツと出来ている。

そういえば呼吸も荒い感じがする。


そんな状況にまで身体が肥えていた。


一念発起で、お盆休み明けから食事制限を開始した。夜ご飯の白米の量を2杯から1杯の半膳にして、野菜を多く摂ることが、まずは食事で制限したこと。


筋トレを始めることで、燃焼率を高めて体重を減らす、とアプリで筋トレメニューを取得して寝る前に始めたこと。


やはり、走ること。

両太ももが筋肉で一番大きいらしい。これを鍛えることで燃焼率は更にアップすると考えた。


ある程度身体が減らしたご飯量に慣れ始め、鍛え始めた筋トレにも慣れ始めた頃、走り始めた。


それが、前回紹介した2016年9月24日だったのではないかと、今になって振り返っている。


そんな時、職場が一緒であるFさんに、「走り始めたならマラソンの大会に出てみたら?」と言われた。


とてつもない衝撃を受けた。

走る事とマラソン大会に出ることを結び付かなかった考えが繋がった瞬間だった。


やったことのない個人競技。

数字で記録がはっきりと解る競技。

体育館やグラウンドを借りなくても、メンバー5人や11人集める事がなくても、目の前の道路へ飛び出せば練習が出来る競技。


こんな新鮮で、こんな衝撃的な事はなかった。


翌年の花巻イーハトーブハーフマラソン大会に初出場することになる。


その年の秋、秋田田沢湖マラソンでの初フルマラソンでは、その恩師からサイズが合わないと頂いた、ターサージール5を履いて挑んだ。


今振り返ると、恩師と大会当日のスタート直前まで行動を共にした時は、全て自己ベスト更新だ。


Fさんは僕の恩師だ。記録の差がどうとか、そういうのは、僕が恩師と思う上で本当にささいなこと。


今までも、そしてこれからも、Fさんは僕の恩師だ。


いわて盛岡シティマラソン2019の完走メダルを先日のマラソン忘年会でお見せすると、恩師は首からメダルをかけてくれた。


恩師は完走することが出来なかったから、僕から首にかけて欲しいとは言えなかった。

でも、恩師は首からメダルをかけてくれた。


一番メダルをかけてほしい人にかけることができた。


いわて盛岡シティマラソン大会1週間前に怪我で出られないかもと言っていた。3日前に、スタートラインには立つよと言っていた。


結果を見ると、30キロまで走っていた。


そんな恩師にかけてふさわしいメダルをかけてほしかった。



これからも僕は走り続けることが出来ると思った。


個人競技であるが、家族の理解と協力に、恩師に、周りの人達みんなに支えられて走ることが出来ている。それがマラソンなのだと、改めて実感した。


生きてきたようで生かされている、これと同じことなのだと思った。